宗教怖い

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フィレンツェの街中には沢山の教会がある。有名な芸術家が遺した宗教画や彫刻が飾られている教会もあるので、観光地化してしまっているところもあるが、信仰の場として利用されている教会も沢山ある(観光地化されているような教会も信仰の場であることに変わりはないのだろうが)。

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そして街を歩いていても写真の様な壁に施された宗教画やモニュメントを至る場所で見ることができる。そうした環境だからだろうか、日本で生活をしていた頃より、人々の信仰心や宗教との結びつきを感じる機会が多いように思う。イタリアは基本的にカトリックの国なので、祝日もキリストの生誕などに関連するものが多い。その祝日が何を意味し、どういう由来なのかをきちんと説明できる人も老若男女問わず多い。僕は日本の祝日のほとんどを説明できる知識を持っていないし、考えたことすらなかったのでとても感心しているし、少しは見習わなければいけないな、とも思う。

 

こんな書き出しになってしまったが、僕は無宗教だ。多分、自分のルーツを辿れば何処かしらの宗教には属しているのだとは思うが、何教かは知らない。そんな程度だし今後、よほど何かに追い詰められたりしない限り、悟りを開いたり改宗しその宗教にふける様なこともないだろう。

 

そもそも、僕は宗教に対してはやや否定的な人間だ。他人がどこかの宗教に属していてもそれは人の勝手だし、尊重もしているつもりだ。僕がイタリアに来ることにした理由の何割かは観光で何度もイタリアの様々な街を訪れ、好きになったからなので当然、美術館や教会に行ったことはあるし、例えば有名な宗教画を見て感動したこともあるし、教会に入って丁寧に十字を切る人達を見れば感心もするのだが、ことその思想などを僕に推し売ろうものなら、一気に気持ちが滅入ってしまうのだ。

 

イタリアでの生活を始める少し前、学生時代の恩師から急に電話が入った。その数ヶ月前に街中で偶然、10年以上ぶりに再会し、連絡先を交換したのだが、それ以来連絡することもされることもなかったので何かな?、と電話をとると“その類の話”だったのだ。僕はとても嫌な気分になった。具体的なことはここでは書かないが、僕にも曲がりなりに宗教や政治に対する考えがあるつもりだ。かつての恩師は大人になった僕がそうした考えを持っていないと判断し、利用してやろう、と企てたのかと思うと、もの凄く腹が立ち、僕の宗教に対するそのスタンスはより一層強くなった。ちなみにその後、僕はそのかつての恩師の着信を拒否している。

 

イタリアでの生活を始めて数ヶ月後、ある日、僕の住む家に呼び鈴が鳴った。まだ生活をしてそれほど日にちが経過していない僕の家に、来客が来ることはほとんどない。友人を招くことは時々あるものの、その際は事前に日にちと時間は約束するので、友人ではないだろう。あとはせいぜい、その家はサッカークラブのフィオレンティーナのホームスタジアムの近くで、試合後に時々、特にフィオレンティーナが負けた時にイタズラでピンポンダッシュされる程度だ。

しかし、その日は試合のない日だったので、その線でもなかった。

 

まだまだ言葉が拙い僕にとっては、そうした来客の対応も緊張するので、恐る恐るインターフォンの受話器をとると

「すみません、〇〇さんですか?」

と、意外にも日本語での問い掛けだった。声の主は男性のようだ。

「はい、〇〇ですが...」

と僕が返答すると男性は

「今、幸せですか?」

と僕に問い掛けてきた。その問いで大体の相手の目的を察した僕は

「...うちは結構です」

と断り、受話器を切った。

 

それからしばらく経過したある日、今度は郵便受けに一通の封筒が入っていた。しかも、その封筒には差出人や僕の家の住所などが一切記入されていないものだった。

部屋に入ってから封を開けると、ローマ字で書かれた日本語で

“本当の幸せとはなんでしょうか?それはお金や物を受け取るではなく、与えることです”

といったニュアンスの文章が書かれており、もう一枚、その宗教の名刺も入っていた。

 

彼らは多分、フィレンツェ中のアパートや家の表札を見て、日本人の名前と思われる苗字を見掛けてはそう声を掛けたり、手紙を置いていくという半ば執念とも言える作業を繰り返しているのだろう、と思うと僕はとても怖く感じた。そして、僕の家の郵便受けはアパートの中にあり、アパートの鍵を持っていなければ、本来なら入ることはできない。恐らく、アパートの他の家のチャイムを手当たり次第鳴らして、扉を開けてもらって入ったのだろうと思うとより怖さが増した。その後、僕はインターフォンが鳴った時の為に予め雨戸を少し開けて置き、鳴った際はそこから相手を覗いてから対応するようにした。

 

今年に入ってから僕は、様々な理由があって家を引っ越すことになった。部屋は以前住んでいた家と比べれば手狭にはなったが、身の丈にあったちょうど良い広さなのでそれほど不便には思わないし、街の中心地に引っ越してきたので近くに商店も多く、夜はややうるさい時もあるが何かと便利で悪くない場所だと感じていた。

 

そんなある日、仕事から帰宅し部屋の窓を開けると、どこからともなく聞き覚えのあるリズムが耳に入ってきた。“お経”である(そのお経がどんなものかをここで書けば恐らく、どこの宗教かを容易に特定できてしまうと思うので書かないが、多くの方が何らかのかたちで耳にしたことのあるであろうもの、とだけ書いておく)。一定のリズムで繰り返し説いていて、段々とトランス状態に入っている様にも聞こえ、狂気すら感じるものだった。

それからというもの、一日置きにそれを僕は耳にすることになり、仕事から帰ってきたあとにこれが耳に入ってくると、大きな疲労感を覚え、耳を塞ぎたくなってくる。ある時には休日の朝、目覚まし代わりとして耳にしたこともあった。とても目覚めの悪い、憂うつな朝だったのは言うまでもないだろう。

 

イタリアに来て、これほどまでに僕が何らかの宗教に縁があるのはどういうことなのか?ということを時々考える。もしかしたらこれは、かつての恩師に僕が一方的に縁を切った罰なのかもしれないし、その怨念なのではないか?とも思う。だとするなら、宗教の持つ力は絶大、ということなのだろう。

 

もしこれ以上の災難が今後、僕の身に降りかかってきた時はこっそりと、かつての恩師の着信拒否設定を解いてみようか、と思っている。

 

ラテン系女子


今回は以前触れた、僕と同時期に語学学校に入学したドミニカ共和国の女の子について書きたいと思う。

 

 語学学校に入学してから数週間後、彼女は僕と同じクラスに入ってきた。どこの語学学校もそうなのかは分からないが、僕の通っている語学学校では毎月新しい生徒が入学するとまずスキルチェックの為、イタリア語の理解度を見極めるテストや面談を行い、それを元にクラス分けされるのが通例となっていた。彼女とは同じクラスになるまではそのスキルチェックの時に顔を合わせた以外は登・下校時や休憩時間にたまに顔を合わせた時にかるく挨拶を交わす程度だった。

 

ドミニカ共和国という国について、僕は大した知識を持っていない。あるとしたら野球が盛んな国で広島カープがよく若い有望株を青田買いしていることくらいだろうか。あとはカリブ海に面した島国で、国民は何となく陽気でマイペース、そして気分屋なイメージがある程度だ。そして彼女もまた、そんなステレオタイプなラテン気質の持ち主だった。

 

彼女は授業中、ほとんどの時間をスマートフォンをいじりながら授業を受けていた。動画を見たりゲームをしたり、友人とWhatsApp(LINEの様なコミュニケーションアプリ)をしながら授業を受けていたので彼女のスマホから授業中に大きな音量が漏れ出ることはしょっちゅうあったし、スマホを見ながら笑いたい時は周りなど気にせずケラケラと笑っていた。不機嫌な時はスマホを操作しながら

「odio(オーディオ)」

とよく呟いていた(嫌い、憎いといった意味で、彼女のニュアンス的には『まったくもう...』といったとこだろうか)。自撮りをしていることもあった。

そしてなぜか彼女は毎日、僕の隣の席で授業を受けた。これはイタリア人女性の多くにも言えることだが、ラテン系の女性は“もっと私を見て!!”とばかりに、露出する部位が多かったり身体のラインを強調した服装を好む人が多い。彼女もまた然りで、目のやり場に困る服装はしょっちゅうだった(見たいとも思わなかったが)。そしてテストの時などは決まって僕の回答を覗いていた。

それから彼女は週に一度は大体、頭痛などの体調不良を理由に授業を欠席した。

 

他の生徒の中には彼女のそうした態度を快く思わない人もいたが、僕も当初は戸惑いこそ少しあったが、僕の回答を覗いてもそれが正解しているとは限らないし(彼女から間違いを指摘されたことも時々あり、その時は『じゃあ見るなよ』とは感じたが)、語学学校に通うモチベーションは人それぞれだと考えていたのでそれほど気にはならなかった。それに彼女から悪意のようなものを僕は全く感じなかった。

 

良く言えば天真爛漫、悪く言えば空気の読めない彼女ではあったが、イタリアでの生活を始めるまでは色々あったらしく、故郷や家族が恋しいことをよく授業中に語っていて、当初はどこか不安げな佇まいで、生活に馴染むまで時間が掛かっている様子だった。慣れない異文化での生活もあったろうが、彼女には息子が一人いるので、息子をドミニカに置いてきたこともそれをより強めたのだろう。前日に電話で家族と話した時は、イタリアとドミニカの時差の関係か、目を真っ赤に充血させながらそのことを嬉々と語っていた。

 

入学から数ヶ月経つと生活に慣れ始め、不安が取り除かれていくのが側からも理解できた。彼女は家を変え、アパートで他の女子生徒と共同で生活を始めたのだが、その生徒とはよほどウマが合ったのだろう。お互い協力し合いながら生活がうまくいっているのが見て取れた。その他の生徒との関係も良く、他の生徒より少し年長ということもあってか、一目置かれるようになった。

彼女が家を変えて間もない頃、彼女は僕に近くのスーパーマーケットの場所を教えて欲しい、と尋ねてきたので僕は彼女に地図を見せながら今の家はどの辺りなのかをまず聞いてみた。すると彼女はフィレンツェの中心部から南下した、アルノ川を越えた辺りを指差したのだが、彼女と一緒に生活している女の子が

「違うよ、この辺だよ」

とドミニカの彼女が指した地点から遠く離れた中心部の辺りを指した。自分が何処に住んでいるのか、いまいち理解できていなかったのだ。そして彼女らの家から近いスーパーを数件教えたのだが、普段スマホを自分の分身の様に手放さずにいるのに、何故かグーグルマップ等は使わず、教えた場所の地図を写真で撮っていた。かなり抜けているところもあったが、その光景は微笑ましかった。

 

語学学校の生徒達や講師らで一度、昼食会があった。彼女は僕の向かいの席に座り、実に楽しそうに過ごしていたのだが、僕はそこで彼女の大きな問題を知った。それは彼女が野菜をまったく食べられないことだった。明らかに野菜が盛り付けられたものだけでなく、トマトソースのパスタすら手をつけない徹底ぶりで

「コースケ、あたしの分も食べて〜」

と、ほとんど彼女の食べられないメニューが僕のもとに来るのだ。メインディッシュが来る頃には僕はすでに満腹で苦しくなり、その光景を彼女はまた実に楽しそうに笑っていた。僕は彼女が週に一度学校を休むほど虚弱なのは、これほどまでに野菜を食べないことに原因があると思っている。

 

そんな彼女ではあったが、意外なほど気を配れる人物でもあった。以前触れたディスコの帰り道、僕達は途中までみんな一緒に帰ったのだが、まだ遊び足りないといった感じの若者たちを余所に僕はへとへとのガス欠状態だった。彼女はそれを察して

「コースケ疲れてるんでしょ?先帰ってもいいよ」

と言ってくれた。僕は多少無理もしていたが

「大丈夫だよ。みんなで一緒に帰ろう」

と返答したが、その気遣いは素直に有難かった。また、別の女子生徒との共同生活時、その女子生徒が部屋の掃除やゴミ捨てなどに非協力的なことをその生徒が帰国するまで周囲に話さず、帰国した後にまた

「odio(オーディオ)」

と呟きながら不満を述べていた時は“意外と日本人的なんだな”とも思った。

 

語学学校を修了する頃になると彼女はすっかり、イタリア語を話せるようになっていた。ドミニカ共和国はスペイン語圏の国で、イタリア語とスペイン語は同じラテン語がルーツなので、きっかけさえ掴めれば上達は速いのだろう。勿論、彼女の努力もあっただろうが。

 

彼女が語学学校を修了した時、僕はすでに働き始め、学校に通う時間帯や曜日が変わったこともあり、学校でお別れの挨拶ができなかったので後日、夕食に誘うことにした。

前述した通り、彼女は野菜が食べられないのでお店をどこにするか悩んだ僕は、冬場のフィレンツェで催されるクリスマス市なら色々な屋台がでるので、その中から選んでもらうことにした。そして案の定と言うべきか、彼女は肉料理の屋台を選んだ。

 

夕食をしながら彼女と色々と会話をした。聞くと彼女はこれからフィレンツェを出てミラノで生活し、仕事もそこで探すとのこと。そして料理が好きなので、コックとして働きたい、と語った。僕は彼女がコックとして働けたら良いな、と思ったが同時にひとつの疑問も浮かんだ。それは“野菜が食べられないコックなどいるのだろうか?”ということだった。

 

夕食を終えた帰り道、途中で一軒のファーストフード店を見つけると彼女は

「あ〜、こっちの方が良かったな〜。今度行こうっと」

と言った。こっちは散々悩んだのに...と思った反面、彼女に悪気が無いのは分かっていた。良かれ悪かれ思ったことを口にするのが彼女らしかった。

彼女を家の近くまで見送り、僕は彼女と握手をしてお別れした。

 

数ヶ月後、彼女の消息が気になってメッセージを送った。すると

「あたし今スペインで生活してるんだ」

と返信が返ってきた。聞くと仕事も見つかり(やはりコックにはなれなかったようだが)、楽しく生活している、とのことだった。既にイタリアにいないことに思わずズッコケそうにもなったが、それもまた彼女らしいな、とも思った。

 

Wattappを時々使うと、彼女が撮った最近の自撮り写真が頻繁にアップされていることに気づく。僕は“面白いヤツだな”と苦笑いまじりに見るのだが、同時に彼女が人生をエンジョイし、自分自身を肯定している様にも映る。僕はあまり自分に自信がない方なので時々、彼女のそうした部分を少しだけ羨ましく思う。

 

髪の毛

皆さんはアントニオ・コンテという人物をご存知だろうか。彼は元イタリア代表のサッカー選手で、現役を退いてからは監督として様々なクラブでその辣腕を振るい、イタリア代表監督を務めたこともある。

 

彼は現役時代、どちらかと言えば“縁の下の力持ち”の役割を担っていた。サッカーに興味がなかったり、詳しくない方でもジネディーヌ・ジダンやロベルト・バッジョ、デルピエロやトッティといったかつてのスター選手の名前を一度くらいは耳にした覚えがあると思う。コンテはそうした名選手達とクラブチームや代表チームで共にプレーをし、俳優で例えればモーガン・フリーマンや日本人なら香川照之のように、脇役を演じながらも時に主役を食うほどの存在感を発揮するような選手だった。

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ご覧の通りの風貌も相まって、泥臭くもチームに欠かせない存在の選手だった。

 

そんな彼が現役を退いてから数年後、監督として表舞台に戻ってきた。僕はその時のインパクトをいまだに忘れられずにいる。

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開いた口が塞がらなかった。髪の毛がフッサフサになって帰ってきたのだ。そして心なしか、顔つきも現役時代よりも精悍に見える。

確かに男前になって表舞台に戻ってきたとは思うが、現役時代のまるで志村けん扮する“変なおじさん”の様な風貌がプレースタイルとマッチしていたと考えていた僕にとっては、とてもショッキングだった。 

僕がその変化に気付くくらいなので、多くのサッカーファンや関係者の間でも広く知られることとなり、彼は現役時代、長くユヴェントスでプレーしていたこともあって、特にアンチ・ユーヴェがかなりその風貌の変化を揶揄した。

 

ルカ・トニという選手がいた。素晴らしい選手で、2006年にイタリアがワールドカップを優勝した時の代表選手のひとりでもあった。

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彼はストライカーで、得点を決めると写真のように右手で耳の周りをくるくると回すのが定番となっていた。

ある時、彼は所属チーム(ユヴェントス)を戦力外になった。お払い箱にしたのは新しい監督、そう、コンテだったのだ。そしてトニもこのままでは終わらなかった。“俺をクビにしたことを後悔させてやる”と言わんばかりに新しい所属先で得点を量産した。

そして迎えたユヴェントス戦、トニはかつて自分をクビにした指揮官の前でゴールを決めると、件のゴールパフォーマンスではなく

『俺の髪の毛はホンモノだぜ』

と見せつせる様に、両手で髪の毛を掻き分けるジェスチャーをしたのだ。これは明らかにコンテに向けてのものだった。コンテが苦い表情を浮かべていたのは、言うまでもないだろう。

 

 

僕も男なので将来的に薄毛になってしまうかもしれないし、禿げたら嫌だなぁ、と思うこともあるが、かつらをかぶったり植毛はきっとしないと思う。そのまま流れに身を委ねるか、いっそのことキレイに剃り上げるかもしれない。あるいは、肩に小鳥でも乗せてそちらに周囲の目がいく様に仕向けるのも有りかもしれない。

 

僕が日本で働いていた頃、勤めていた会社に誰の目にも明らかな“かぶりもの”をした人がいて、そこそこ上の地位にいる人だった。ある日、職場の同僚たちとの飲み会で近くの居酒屋に入店すると、会社のお偉方も偶然いて、その中のひとりにその“かぶりもの”をした人もいた。

お偉方と僕たちとは離れた場所で飲んでいた。そして、一足先にお偉方が帰って行く際によほど楽しいひと時を過ごせたのか、僕たちの飲食代も出してくれることとなった。当然、僕たちはお礼を言ったのだが、一緒に飲んでいた僕の直属の上司がこう言ったのである。

「〇〇さん、ズラかぶってるって本当ですか?」

“恩を仇で返す”とはまさにこのことだろう。その場にいた僕の上司以外の全員が凍りつき、しばし重たい空気が漂った。そのお偉方と“かぶりもの”をした人は何とも形容し難い、複雑な表情をしながらお店を去っていった。上司はお酒が入り、かなり気が大きくなっていたのだろう。まるで鬼の首でも獲ったかの如き得意げな表情でさらに酒をすすめた。まだ若かった僕はこの時“世の中には決して口にしてはいけない真実もある”ことを学習した。

 

イタリアでの生活を始めて数ヶ月後、僕は中古の自転車を買った。その自転車には購入当初、カゴと警笛(ベル)が付いておらず、イタリア人の友人が自転車屋を営んでいる友人がいるので紹介する、と言ってくれたので一緒にその自転車屋に行くことになった。

その自転車屋は僕の住んでいる家から自転車で2〜3分で着くくらいの近場にあった。友人から店主を紹介されると、真っ先に店主のある部分に僕の目は向いた。そう、その店主もまた“かぶりもの”を身につけていたのだ。誰もが真っ先にその“かぶりもの”に目がいくと言っても過言でない程の明白な“偽物”を、彼はかぶっていたのだ。

店主は手際よくちゃっちゃと僕の自転車にカゴとベルを設置すると、僕の友人と雑談を始めた。僕は終始、店主の“かぶりもの”が気になって仕方がなかった。

『(僕の友人は)彼の髪型についてどう思っているのか?』

『その件に言及したことはあるのか?』

『まさか彼の“かぶりもの”を気付いていないのか?』

そんないくつものクエスチョンマークが頭の中でぐるぐると回りながら、イタリア人の雑談を眺めていた。後日、友人に彼の“かぶりもの”の件を問うと

『それは聞いてくれるな』

という眼と苦笑いで、話を濁した。

 

ある日、僕は自転車のタイヤの空気があまいことに気が付いた。昼食前の自宅への帰り際だったので、帰宅前に件の自転車屋に寄ってから帰ることにした。自転車屋に到着し

「すみません、タイヤの空気があまいので空気入れをお借りしたいのですが...」

僕が店主に尋ねると、店主は不機嫌そうに

「こっちはこれから昼食なんだよ!!後で来いッ!後で!!」

僕はカチン、ときた。パンクを直して欲しいと頼んでいる訳ではなければ、空気を入れて欲しい、と言っている訳でもないのだ。空気入れさえ貸してもらえたら自分で入れようと思っていたのだ。

「ほら帰れっ!3時過ぎにまた開くから!!」

全く聞く耳を持たない店主に僕は日本語で

「何だよ、ズラ!」

そう捨て台詞を吐いて、空気のあまい自転車に乗って帰って行った。

 

しばらくして、僕は後悔した。数年前にかつての上司が吐いた“決して口にしてはいけない真実”を、今度は僕が言ってしまったのだ。

『あの時、学習したはずなのに...』

そう反省し、自分の非を悔いた。せめて、トニのように皮肉を効かせたジェスチャーにしておけば、とも思った。後日、友人にそのやりとりを一部始終話すと、再び苦笑いを浮かべた。

 

その後、時々街中で店主を見掛けることがある。一際目立つ“かぶりもの”をしながら自転車に乗っているのをよく見掛けるのだ。近くをすれ違ったこともあるが、彼は僕に気付くそぶりは見せないので、多分、僕のことなど覚えていないのだろう。そもそも、僕の吐いた暴言の意味も知らないのだろう。

 

僕は無宗教の無神論者だが、良い行いをすれば良い報いがあり悪いことをしたらバチが当たる、といった類のことは割と信じるほうだ。

時々シャワーを浴びている時に抜け毛が多いと

『ついに報いを受ける時が来たか...』

と思う時がある。

僕が将来、髪が薄くなったとしたら、それはこの件でバチが当たったということなのだろう。それでも、僕はもう、彼の自転車屋へ行くことはしないだろう。それは暴言を吐いてしまった後めたさと、空気入れを貸してくれなかったことをいまだに少し根に持ってもいるから、なのである。

 

 

語学学生たち

僕はイタリアで生活を始めてから、現地の語学学校に通い始めた。

大げさかも知れないが、人生は何が起こるかわからないものだ。ほんの数年前まで何年も会社員として働いていた僕が、30台も後半に突入した頃に語学学校とはいえ再び学生になるとは考えもしなかった。そして、イタリアで生活をすることになることも。

 

日本で生活していた時からイタリア語は少しずつ勉強していたが、ずっと独学で勉強をしていたので英会話教室のような学校には通ったことはなく、語学学校がどんなところか全く知らなかった。色々な話を聞くと宿題もあるとのことで、いい歳した中年男が宿題を忘れて、他の学生に小馬鹿にされたら嫌だな、何てことを考えたりもした。

 

語学学校に通い始めると、生徒たちは国籍も世代も、学校に通う期間や目的も様々だということを知った。僕が通い始めた頃は、日本人の生徒も結構多く、彼らは授業の後に食事に行ったり休みの日には旅行に行ったりしていた。僕もたまに食事に付き合うことはあったが、正直に言えば僕は彼らと行動を共にすることにあまり積極的ではなかった。皆、親切で良い人達だったので学校で顔を合わせれば日本語で談笑もするし、偶然街で会えばそこから会話や行動を共にすることもあったが、せっかくイタリアまで来ておきながら、気持ちが通う同士ならともかく、日本人とばかり関わることに僕には少し抵抗があったのだ。

 

通い始めてから数ヶ月後には僕が入学した頃にいた生徒のほとんどが去っていき、新しい生徒たちが入学してきた。彼らのほとんどは学生で、夏休みを利用してイタリアにやって来たのだ。

国籍はバラバラで年齢も僕より一回り以上、下の世代が多かったが、良い意味で上下関係がなく対等に接することのできる良い奴らだった。

 

彼らはとてもアクティブで、授業が終わると食事や美術館に行ったり、夏場だったので海やプールにもよく行ってたようだ。そして、週末にはディスコやクラブに通っていた。欧米の人達は踊りに行くのが好きだし、彼らの若さを考えればそれも当然なのだろう。僕と同じ時期に入学したドミニカ共和国の女の子が踊るのがとても好きなことも知っていたので、それまでやや浮いていた彼女が仲間を得られたことも、他人事ながら良かったな、とも思えた。ちなみに彼女はとても強烈なキャラクターの持ち主で、語学学校の中で最も長い付き合いとなるのだが、それについては改めて機会を設けたいと思う。

 

ある週末の夜、生徒のひとりのオランダ人の男の子からディスコの誘いを受けた。その日の昼間に他の生徒たちを誘っているのは知っていたがその場では誘われなかったので、この誘いは僕にとって意外なものだった。

僕は日本でもその類の夜の遊び場に行った経験がほとんど無いし、そもそも踊ったことなんてない。しかし、彼が分け隔てすることなく僕を誘ってくれたことに対しては悪い気はしなかったので、これもひとつの経験かな、とも思い、誘いに応じることにした。

 

 日付が変わった0時過ぎに僕がディスコに到着すると彼らはすでに踊りを楽しんでいた。そして、おそらく僕がこないと踏んでいたのか、少々驚きながらも僕のことを歓迎してくれた。

僕を誘ってくれたオランダ人の男の子以外はドミニカの女の子とスロバキアの女の子、そして2人のドイツの女の子といった顔ぶれだった。

彼らはディスコでの楽しみ方や踊り方を、場慣れしていない僕に親切に教えてくれた。踊りにこそ終始慣れることはなかったが、彼らの親切のおかげもあり僕の緊張もややほぐれてきた頃、ディスコの中も段々と人が多くなり、学生達もテンションが上がっていった。

 

“ハメを外す”とはまさにこの事、といった感じで彼らはハジけた。オランダ人の男の子は新しい出会いを求めてディスコ内で様々な人に声を掛けていき、ドイツ人の女の子のひとりとスロバキアの女の子にいたっては人目もはばからずディープキスを重ねていた。他のダンス客も凝視する程刺激的なもので、僕は頭の中で全力で彼女達にモザイクをかけた。

 

僕はといえば、もう1人のドイツ人の女の子とドミニカの女の子と過ごしていた。ドミニカの女の子は学校内でも授業そっちのけでスマートフォンをいじり続けている様な子で、この日もスマホで動画を撮りながら踊っていた。

彼女は僕よりは遥かに若いが彼らのグループの中ではやや歳上で、見た目の割に(失敬)気の回る子でもあったので、僕に対してもだが、それ以上にドイツ人の女の子の方にも気を使っていたのだと思う。と言うのも、聞くと彼女は前回ディスコに来た際にかなりの回数、男性から誘いを受けたとのことで、その都度ドミニカの女の子が間に入り、断りをいれたらしいのだ。長身でモデルの様なスタイルの持ち主だったので、男性側の気持ちも当然、理解はできた。

 

そしてこの日もまた、ひとりの男性が彼女に近づいてきて、踊りながらチャンスを伺い始めた。彼は徐々に彼女との距離を詰めて、彼女の身体に接触しようとした時、ドミニカの女の子が間に入ろうとした。しかし男性は、ドミニカの女の子には目もくれずに、なおもドイツの女の子にアプローチを仕掛け続けた。

僕はそのドイツの女の子の方にその気があったり、まんざらでもない素振りならただ見守るつもりでいたのだが、明らかに嫌そうにしていたし、側から見て男の方も粋じゃないなと思い、そしてドミニカの女の子だけでは彼を遠ざけるのが難しそうだったので、僕も間に入ることにした。

すると彼は逆上し、僕に

「なんだよテメーは!?すっこんでろよ!!」

といった感じで突っかかってきたのだ。僕は

「彼女嫌がってんじゃん?やめなって」

と言ってなるべく穏便に済ませようとした。しかし、間に入った時に少し彼の身体に接触したのか、

「俺に触るんじゃねぇよ!次、触れたら殴るぞ!!」

と、更にいちゃもんをつけ、僕を怒鳴り散らした。

 

殴られたら嫌だな、とは勿論感じたが、僕は彼に対して一切、恐怖は感じなかった。あったのは狙った女の子の前で器の小ささをさらけ出す彼に対しての哀れみと、面倒なことに首を突っ込んでしまったな、というほんの少しの後悔だった。

「はいはい。君が男前なのはちゃんと理解できたよ」

言われっぱなしはシャクなので、僕は皮肉っぽくそう返し、彼は更に怒り続けた。

結局、埒が開かないと見たのだろう。ドイツの女の子が連絡先を彼に渡して、その場を収めた。そして、ドイツの女の子から礼を言われ

「なんてことないよ」

と僕は返した。

ドラマだったらここで主題歌が流れて、一気にストーリーが展開するのであろうが、全くなにも起こることはなかった。

 

こうしたやり取りがあった後、3時頃には疲れてほとんど踊ることができない状態だったが、結局、僕はディスコの閉まる早朝5時過ぎまで彼らと行動を共にした。疲労困憊で、まるで“あしたのジョー”の最終話のラストシーンの矢吹丈のようなガス欠の僕をよそに、彼らはけろっとした表情で、少し休んで海に行くと言っていた。

彼らと別れ、帰宅した僕はすぐに就寝し、夕方近くまで目を覚ますことができず、数日間、その疲れが抜けることもなかった。

 

週が明けた月曜日、語学学校では僕がディスコに行ったことがちょっとした話題になり、ドミニカの女の子が撮影した動画を見たい、という話になった。僕としては別にみんなに見てもらって、笑いものにしてもらっても構わなかったのだが、何故か彼女は誰にも動画を見せることはしなかった。多分、彼女なりの僕へのフォローだったのだと思う。そのくらい僕の踊っている様はぎこちなく、ひどいものだったのだろう。

 

数日後、再びオランダの男の子からディスコに誘われたのだが、早朝まで彼らに付き合える体力の自信がなく、丁重に断った。

その週末、そのオランダの男の子が他の生徒たちよりひと足早く、オランダに帰国することを知った。僕はほんの少し、数日前にディスコの誘いを断ったことを後悔した。

その日の晩、また彼から遊びの誘いを受けた。翌日、朝早くからの用事があったので少し迷ったが、短い時間なら、とあらかじめ伝えて、誘いに応じた。彼と会えるのもこれが最後か、と思うと少し寂しさもあったが、最後に短時間でも遊ぶことができて、良かったと思っている。

 

夏が終わる頃、ドミニカの女の子を除いた生徒は皆、各々の母国へ帰って行った。彼らの最終日、僕は彼らとそれぞれ、握手をしてお別れした。

 

僕はきっともう、ディスコに行くことはないだろうし、人前で踊ることもきっとしないだろう。しかし、彼らのおかげで精神的には少し若返ることができたかな、と今でも時々考えるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

握手男

幸いなことだが、旅行で訪れた時も含めて、僕はイタリアでひったくりやスリなどの被害に遭ったことがない。自分で言うのも何だが、その類に対する警戒心は比較的、強い方だと思っている。出掛ける時のお金や貴重品の管理はかなり用心している自負はあり、当然、今後そういう目に遭うかもしれないので偉そうなことを言うつもりはないが、力ずくで奪われない限りは大丈夫なようにはしているつもりだ。

 

しかし、そんな僕も去年の冬、イタリアで生活を始めてから最も恐ろしい体験をした。

 

僕は職場のあるフィレンツェ郊外の街まで、トラム(路面電車)とバスを乗り継いで通っている。トラムの停留所までの自転車移動を含めると、片道でだいたい1時間程度掛かる。

ある朝、僕はいつも通りトラムを降りて、停留所でバスの到着を待っていた。本来乗車している時間のバスに乗ることができずに、次のバスが来るのを待つことになった。イタリアは日本のように鉄道も含めた交通機関がダイヤ通りに機能していることの方が珍しいくらいで、遅延はしょっちゅう起こるし、バスは道路が混雑していなければ予定時刻より早く出発してしまうことすらある。この日もそんな予定通りにいかない、ある意味では“通常通り”の朝だった。

 

僕はイヤフォンをして音楽を聴きながら、ややうつむき気味にバスの到着を待っていた。すると、ひとりの男性が僕に声を掛けてきた。冬場で着込んでいる為か、かなり恰幅の良い体型に見える、大柄の男性だ。イヤフォンをしていたこともあり、男性が何と声を掛けてきたのか理解はできなかった。彼はそして、僕に握手のために右手を差し出してきた。

 

普段なら僕は、掛けられた声に返答することはあっても、どこの誰だか知らない相手の握手に反応はしないのだが、この日は自分でもなぜかわからないが、半ば条件反射のように右手を出してしまったのだ。

すると男性は僕の手を握り、微笑みながらいっこうにその手を離そうとしないのである。僕は何とか穏便に手を離そうと試みたのだが、握力の強さとは別の、まるで彼の掌には吸盤でも付いているかのような感覚で離れることができなかったのである。

 

僕は怖かった。彼は一体、何者なのか。どこかで一度会ったことがあるのか。何故僕の手を離さないのか。そんなことを考えている僕に彼は、僕の手を握ったまま色々な質問を僕にしてきた。

「どこに住んでいるの?」

「仕事は何をしているの?」

そんな問いかけを僕は極力はぐらかし、何とか彼から離れたい気持ちでいっぱいだった。一瞬、強引にでも手を払うべきかとも考えたが、できなかった。

この出来事の少し前に僕は映画“ジョーカー”を観ていた。去年、話題になった作品なのでご覧になった方も少なくないと思うが、ざっくりと言えばコメディアンを夢見る心優しい青年が、次第に精神を病んでいき、悪に心を染めていく...といった内容の映画だ。

その主人公に、彼をダブらせた。

『俺が怒ってでも強引に手を払ったら、この人はどんな反応をするんだ...』

顔つきなどから悪意のようなものは感じられなかったので、それが余計に怖さを増幅させた。

 

しばらくして、何らかの拍子で彼は僕の手をようやく離してくれた。正直、その前にどんなやりとりがあったのかをほとんど憶えていない。彼が手を握っている間に恐怖と、色々な問いかけが自分の中で駆け巡っていたからだ。多分、時間にして数分のやりとりだったのだと思うが、僕には数十分も握られていた様に思えた。

手を離してから、彼はこれまでの僕とのやり取りなど何もなかったかのように僕から遠ざかり、バスの到着を待った。彼から離れた僕の手は、多分彼の使っている石鹸の香りがついていた。微妙に良い香りだった。

 

バスが到着し、彼はドライバーのすぐ後ろの座席に着席した。僕は彼から距離を取りたかったので可能な限り後方に身をおき、彼を観察した。僕が降車する際にもまだ席についていたので、更に先の停留所で降りることがわかった。

その日は一日中、彼と朝の出来事が脳裏に焼き付き、離れることはなかった。その日は金曜日で、僕は土・日曜日が休みなのだが、週明けの朝にまた、彼に会い、声を掛けられるかもしれないと思うと、とても憂鬱な気持ちになった。

 

 

週が明け月曜の朝、バスを待っている時にトラムから降りる彼が目に入ったのだが、彼は電動のスケートボードを持参していてヘルメットをかぶり、バスではなくそれに乗って行った。そして火曜の朝もそうだった。僕は正直、ほっとしていた。

 

火曜の夜、僕は帰宅する為、会社から最寄りのバス停に行くとバスが到着するまでにまだ10分近く待たなければならないことを知り、帰り方向側のもう一つ先のバス停に向かえば、別のルートのバスもそこに止まり、そのバスなら別のトラムの停留所の近くまで行くことができるので、そこに向かうことにした。

そのバス停までは400メートルほどの距離があり、前述の通り、道路が混雑していなければ普段利用しているバスが早めに通過してしまうこともあり得るので、いつものバスと別ルートのバスを両天秤にかけていた僕は小走りで向かうと、そのバス停にひとりの男性がすでに待機しているのが見えた。大柄の男性、そう、件の男性である。

『何でこの人、ここにいるんだ...いるはずのない場所に、いるはずのないこの人が...』

朝、電動のスケボーに乗っていたことと、バスを使うにしてもこのバス停ではないはず。にも関わらず、彼はいたのだ。そのバス停は近くにスーパーやバールなどの商店がなく、人気も少ない。そこに彼と2人きりでバスを待たなければならないことを考えるととても怖くなり、僕はそのひとつ先のバス停を通り越し、走る速度を上げて、さらにもう一つ先のバス停まで向かうことにしたのだった。

 

最後にこれほどまでに全力で走ったのはいつ以来だろうかと思うほど息を切らしながら走り、バス停に到着した時には冬場にも関わらず大量の汗をかいていた。その数分後、バスが到着した。普段利用しているルートを走るバスだった。

僕が乗車をすると、件の彼も乗車していた。またドライバーの真後ろの席に。彼は乗車した僕に気がついた様子だったが、僕は知らないふりをした。

 

その後僕はなるべく、朝は彼に気付かれないような場所でバスを待つようにし、彼もしばらくは僕に気がつくと近寄ろうとするそぶりを見せたことがあったが、彼からロックオンされた気配を感じた僕は何かを思い出したかのようなふりをして、近くのバールに逃げるなどの処置をとり、やがて彼も声を掛けてくることはなくなった。バス停で待つ他の人々の中にも、彼が近づくと視線を逸らしたり、遠ざかる人がいることに、僕は後から気が付いた。

 

ある朝、トラムの車内で、別の車両に彼も乗車しているのが見えた。彼は隣の乗客と会話をしていた。そして最後に握手をした。やはりその時も彼はしばらく、その手を離すことはしなかったのだった。

 

 

 

 

物乞い野郎と僕

はじめに

半ば見切り発車で執筆をスタートしましたが、前回の内容である程度、僕の中で今後の方向性が定まった気がしました。なので、全体のタイトルを

『(あまり為にはならない)イタリアでの日々エッセイ』

にしました。

自分から書き始めておきながらこんなことを言うのも何ですが、“ブログ”という響きが僕にはどうもこそばゆいというか、少し違和感がありました。それに毎日、もしくはそれに近い頻度で綴っていくのは今後無理があるなと思い、しかし、書くからには取り留めなくでもそれなりにしっかりしたものを書きたいな、とも思い、大変おこがましく恐縮ですが“エッセイ”と名乗らせてもらうことにしました。

 

以後、拙い文章かつ毒にも薬にもならない内容ではありますが、引き続き御愛読頂けたら幸いです。

 

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僕がイタリアにはじめて来たのは、かれこれ10年以上前の旅行の時だった。それが人生初の海外旅行、そしてひとり旅でもあったので、沢山の刺激やカルチャーショックを感じたものだが、そのひとつはホームレスや物乞いの多さだった。日本にもホームレスはいるが、物乞いとなるとあまり見た記憶がない。

 

彼らは様々な方法で我々に物(主にお金)を要求してくる。ある者は街の中心地で観光客をターゲットにしたり、またある者はスーパーマーケットの前で買い物帰りの客のつり銭を目当てにし、時には停車中の電車の中で乗車客にせがんでくる者もいる(イタリアでは地下鉄以外、改札口のある駅はほぼないので、ほとんどの駅でたとえ切符を持っていなくても乗車することができる。勿論、車内での検札はある)。

 

数年前、とある街を旅行中に駅で切符を購入している際に突然、男が僕に

「お釣りちょーだい♫」

と、何らわるびれる気配もなくせびってきて、一周回ったあまりの潔さに感服してしまい、与えてしまったことがあった。勿論、少額の硬貨ではあったが。

 

フィレンツェで生活してみてわかったことがある。それは彼らが“物乞いという名の仕事”をしている、ということだ。

ひとり、よく見掛ける物乞いがいる。彼は身体が不自由らしく片方の腕で杖をつき、今にも倒れそうにフラフラしながら、もう片方の腕で紙コップを持ち、街を行き来する人々にそれを突き出し、

「腹減った〜〜、カネ恵んでくれ〜〜〜」

と言った調子で物乞いをしている。

ある時、スーパーで買い物をしている時に彼を偶然見掛けたのだが、驚くべきことに片手に杖を持ってはいるものの、なんら不自由することなく店内を歩き回っていたのだ。そのふてぶてしさたるや、まるで何の接触も無いのに痛がりながらファールをアピールする、どこぞのサッカー選手のように僕には思えた。

 

さらにもうひとり、普段は街中のゲームセンターの前で寂しげに体育座りをしながら、まるで

『もう何日も食事してないんだ...空腹で死んじゃうよ...』

とでも言わんばかりの眼差しで訴えかけてくる物乞いが、他の場所で水を得た魚の如くはしゃいでいたこともあった。

 

そんなズル賢い連中の中にひとり、僕にとって無視することのできない男がいる。

最初にその男に遭遇したのはまだフィレンツェでの生活を始めて間もない頃、買い物の帰り際の時だった。

男は僕に

「ボクはリヴォルノ(フィレンツェと同じトスカーナ州にある街)に住んでいるんだけど、あいにく今、帰りの運賃を持ち合わせてないんだ...申し訳ないがいくらか恵んでもらえると助かるんだけど...」

と、お金を求めてきたのだ。僕が丁寧に断ると男は

「何だよ使えねーな、ケチめっ!」

というような感じで僕を罵り、タバコをふかしながら去って行ったのだ。

 

それ以来、僕は何度もその男に遭遇することになる。それも様々なエリアで、である。大抵の物乞いは出没するエリアが決まっているものだが(縄張りなどもあるのかもしれない)、その男は神出鬼没、至るエリアに顔を出すのだ。ある時は駅の中で、またある時は大聖堂近く、そして別のまたある時は高級ブランドが軒を連ねる通りで、といった具合だ。

男は何度も僕に同様の口実でお金を求めてくるので、ある時は無視し、またある時は

「働きなよ」

「俺だって恵んで欲しいくらいだよ」

などと返答したりした。こうしたやりとりがあれば普通は次から僕のことを認識し、避けられてもおかしくないと思うのだが、何故か男はまた会うとリセットされたかのように同じ手口で僕にお金を求めてくるのだ。僕はいつしか、男をゲームのドラゴンクエストに現れるモンスター“メタルスライム”のように捉えるようになった。

 

ある時、仲間内で男の話題になった。フィレンツェの中心地は徒歩で回れる広さなので皆、男のことを知っていて、同じ手口でお金を求められたことがあるようだ。そしてやはり、それがかつて会ったことのある人であっても、だ。

そして、話題は男の国籍の話になった。男はやや訛りのある話し方が特徴のひとつで、まだイタリア語を鋭意勉強中の僕でも、少しクセのある話し方だな、とは感じていた。

顔立ちなども含め、1人の友人は“ウクライナ人”ではないかと言った。また、僕の通う語学学校の講師は“ハンガリー人”だと言い、別のスタッフの女性は

「あれはイタリア人よ。外国人の“ふり”をしてるのよ」

と言った。

『面白い。暴いてやろう、あの男の国籍を』

僕の中で好奇心が溢れ出し、次に男に遭遇したら尋ねてみることにした。

 

それ以来、僕は街を練り歩く度に男を探すようになった。しかし前述した通り、男は決まったエリアではなく、様々な場所に出没するので、なかなかチャンスは訪れなかった。

そんなある日、冬場のやや人気の少ない通りを歩いていた時、曲がり角から奴が現れたのだ。そう、僕にとっての“メタルスライム”が。

そして例の如く、僕にこう訴えかけてきた。

「ボクはリヴォルノに...」

くらいのタイミングで僕は食い気味に

「アンタ、どこ出身なの?」

そう僕が問うと、男は少し戸惑いながらも

「リヴォルノまでの運賃が...」

と繰り返す。僕も負けじと

「どこ出身なんだっ!」

と更にかぶせると、男は困惑しながら

「イ、イングリッシュ....」

と返答した。僕は

「よし、わかった。ありがとう」

と男に礼を言い、踵を返し男に背を向け、その場を去った。男は何やらまた、僕に文句の言葉を飛ばしてきたが、もはやどこ吹く風だった。

 

意気揚々と満足げに街を歩く僕の脳内では、ドラゴンクエストでレベルアップした際にかかるファンファーレが鳴り響いていた。

 

パブ

僕はパブ(酒場)に通うのが好きだ。日本で生活していた頃はお酒を飲みに行くことがそこまで好きだった訳ではなかったが、イタリアでの生活を始めてからよく通うようになった。理由は単純に、サッカー(カルチョ)の試合が観たかったからだ。

毎試合スタジアムに通える程、経済的な余裕は無いし、家にテレビはあるが、衛星放送は見ることができないので、試合を観戦することのできるパブを探し、そこに通うようになった。

 

僕は生活しているフィレンツェの地元チーム(フィオレンティーナ)のファンではなく、ナポリというチームのファンなので、最初の頃はナポリの試合のある日のみ通っていたのだが、通っているうちに店員も僕のことを覚えてくれて、

「今日はナポリ、勝つといいね」

みたいに声を掛けてくれるようになった。僕も悪い気はしないので、ナポリの試合だけでなく、注目度の高い試合やフィオレンティーナの試合がある時にも少しずつ、通うようになっていった。

 

これは多分、イタリアのどの街のパブにも共通するのではないかと思うが、地元のチームの試合がある時は、たとえ同時刻にもっと注目度の高い試合があっても地元チームの試合を優先して放送するはずだ。そして、地元チームの試合放送時とその他では店の雰囲気もガラリと変化する。

フィレンツェにもフィオレンティーナではなくユヴェントス(トリノのチーム)、ミランやインテル(どちらもミラノのチーム)、ローマなど別の街のチームを応援する人は勿論いるのだけど(当然、僕が応援するナポリのファンも)、例えばナポリとユヴェントスの試合を放送している時は店の雰囲気は比較的穏やかで、よりローカルなチームとの試合の時は僕しか試合を観ていないんじゃないか?と感じる時もある。

しかし、地元のチームの試合時は違う。多分、僕と同様の理由でスタジアムではなくパブに通う人も多いのだと思う。地元チームが得点したり、勝利の瞬間はパブの中がスタジアムさながらのムードになる。そうした雰囲気が僕は嫌いではないのだ。

 

その日はフィオレンティーナとミランの試合日だった。試合前に入店し、席に着くなり4〜5人のグループでいた中の1人が僕に声を掛けてきた。

「おいお前、ミランサポーターじゃないだろうな?」

「違うよ。」

と僕は返答した。

多分、フィオレンティーナのサポーターなのだろう。見た感じ、僕と同世代か少し年下の世代の男達で、1人は足を怪我していて、松葉杖をついていた。

 

試合が始まる頃になると店中が人で溢れ、普段はいない立ち見のお客さんも結構いたと思う。スタジアムにいるサポーターのように応援歌を歌ったり、チャントを送るグループもいて、悪くない雰囲気が漂っていた。

 

しかし、そんな雰囲気に反して、ミランがイブラヒモビッチという選手の得点で先制する。パブ中が一瞬、静まり返り、その直後に僕の近くにいた1人の男性が喜び始めた。ミランサポーターなのだろう。

その刹那、

「テメー、ナニ喜んでんだッ!!!」

入店時に僕に声を掛けてきたグループの1人がそのミランサポーターの元へ怒鳴りつけながら向かって行き、殴りかかったのである。ミランサポーターの方も応戦し、更にグループの仲間らもそこに加わり出した。

 

当然、店員達は制止しようとした。その店は僕の知る限り男性3人、女性2人が働いているのだが、その日はあいにく、男性陣うち1人の若いが良く気の回る優秀な兄ちゃんが不在だった。

『俺の好きな場所が今、荒らされようしている...』

そんな気持ちがよぎり、変な使命感が突然芽生え、僕も喧嘩の仲裁に加わることにした。

 

ラグビーのスクラムのように相手を抑えつけたのだが、イタリア人の方がフィジカルが強く何度も振り切られそうになり、それでも無我夢中に僕が制止しているうちに店員の1人の女性が

「いい加減にしなさいッ!!警察呼ぶわよ!!!」

その声でようやく、喧嘩は収まったのだった。そしてふと冷静になった時、僕が抑えつけていたのが松葉杖をした男だと知ったのだった。

 

『俺は怪我人相手にあんなに必死になっていたのか...』

急にそんな虚しさに苛まれ、しょんぼりしながら自分の席に戻り、試合に目を向けると、何故かスコアが“1ー0”ではなく“0−0”であることに気が付いた。ちょっとした興奮状態でもあったので、見間違いかとも思ったが、やはり“0−0”なのである。

「すみません、なんで0−0なんですか?」

近くで観戦していたお客さんにそう尋ねると

「得点の直前にイブラヒモビッチがハンドをしてて、ゴールが取り消しになったんだよ」

 

それを聞いた瞬間、僕はせっかくだからこの一連の出来事も取り消しになってくれないものか、と思った。

 

(お店の名誉の為に補足すると、後に制止をしたことのお礼は言ってもらいました。念の為)