宗教怖い

f:id:austin3_16:20200713163448j:imagef:id:austin3_16:20200713163516j:image
フィレンツェの街中には沢山の教会がある。有名な芸術家が遺した宗教画や彫刻が飾られている教会もあるので、観光地化してしまっているところもあるが、信仰の場として利用されている教会も沢山ある(観光地化されているような教会も信仰の場であることに変わりはないのだろうが)。

f:id:austin3_16:20200713163538j:imagef:id:austin3_16:20200714161355j:image

そして街を歩いていても写真の様な壁に施された宗教画やモニュメントを至る場所で見ることができる。そうした環境だからだろうか、日本で生活をしていた頃より、人々の信仰心や宗教との結びつきを感じる機会が多いように思う。イタリアは基本的にカトリックの国なので、祝日もキリストの生誕などに関連するものが多い。その祝日が何を意味し、どういう由来なのかをきちんと説明できる人も老若男女問わず多い。僕は日本の祝日のほとんどを説明できる知識を持っていないし、考えたことすらなかったのでとても感心しているし、少しは見習わなければいけないな、とも思う。

 

こんな書き出しになってしまったが、僕は無宗教だ。多分、自分のルーツを辿れば何処かしらの宗教には属しているのだとは思うが、何教かは知らない。そんな程度だし今後、よほど何かに追い詰められたりしない限り、悟りを開いたり改宗しその宗教にふける様なこともないだろう。

 

そもそも、僕は宗教に対してはやや否定的な人間だ。他人がどこかの宗教に属していてもそれは人の勝手だし、尊重もしているつもりだ。僕がイタリアに来ることにした理由の何割かは観光で何度もイタリアの様々な街を訪れ、好きになったからなので当然、美術館や教会に行ったことはあるし、例えば有名な宗教画を見て感動したこともあるし、教会に入って丁寧に十字を切る人達を見れば感心もするのだが、ことその思想などを僕に推し売ろうものなら、一気に気持ちが滅入ってしまうのだ。

 

イタリアでの生活を始める少し前、学生時代の恩師から急に電話が入った。その数ヶ月前に街中で偶然、10年以上ぶりに再会し、連絡先を交換したのだが、それ以来連絡することもされることもなかったので何かな?、と電話をとると“その類の話”だったのだ。僕はとても嫌な気分になった。具体的なことはここでは書かないが、僕にも曲がりなりに宗教や政治に対する考えがあるつもりだ。かつての恩師は大人になった僕がそうした考えを持っていないと判断し、利用してやろう、と企てたのかと思うと、もの凄く腹が立ち、僕の宗教に対するそのスタンスはより一層強くなった。ちなみにその後、僕はそのかつての恩師の着信を拒否している。

 

イタリアでの生活を始めて数ヶ月後、ある日、僕の住む家に呼び鈴が鳴った。まだ生活をしてそれほど日にちが経過していない僕の家に、来客が来ることはほとんどない。友人を招くことは時々あるものの、その際は事前に日にちと時間は約束するので、友人ではないだろう。あとはせいぜい、その家はサッカークラブのフィオレンティーナのホームスタジアムの近くで、試合後に時々、特にフィオレンティーナが負けた時にイタズラでピンポンダッシュされる程度だ。

しかし、その日は試合のない日だったので、その線でもなかった。

 

まだまだ言葉が拙い僕にとっては、そうした来客の対応も緊張するので、恐る恐るインターフォンの受話器をとると

「すみません、〇〇さんですか?」

と、意外にも日本語での問い掛けだった。声の主は男性のようだ。

「はい、〇〇ですが...」

と僕が返答すると男性は

「今、幸せですか?」

と僕に問い掛けてきた。その問いで大体の相手の目的を察した僕は

「...うちは結構です」

と断り、受話器を切った。

 

それからしばらく経過したある日、今度は郵便受けに一通の封筒が入っていた。しかも、その封筒には差出人や僕の家の住所などが一切記入されていないものだった。

部屋に入ってから封を開けると、ローマ字で書かれた日本語で

“本当の幸せとはなんでしょうか?それはお金や物を受け取るではなく、与えることです”

といったニュアンスの文章が書かれており、もう一枚、その宗教の名刺も入っていた。

 

彼らは多分、フィレンツェ中のアパートや家の表札を見て、日本人の名前と思われる苗字を見掛けてはそう声を掛けたり、手紙を置いていくという半ば執念とも言える作業を繰り返しているのだろう、と思うと僕はとても怖く感じた。そして、僕の家の郵便受けはアパートの中にあり、アパートの鍵を持っていなければ、本来なら入ることはできない。恐らく、アパートの他の家のチャイムを手当たり次第鳴らして、扉を開けてもらって入ったのだろうと思うとより怖さが増した。その後、僕はインターフォンが鳴った時の為に予め雨戸を少し開けて置き、鳴った際はそこから相手を覗いてから対応するようにした。

 

今年に入ってから僕は、様々な理由があって家を引っ越すことになった。部屋は以前住んでいた家と比べれば手狭にはなったが、身の丈にあったちょうど良い広さなのでそれほど不便には思わないし、街の中心地に引っ越してきたので近くに商店も多く、夜はややうるさい時もあるが何かと便利で悪くない場所だと感じていた。

 

そんなある日、仕事から帰宅し部屋の窓を開けると、どこからともなく聞き覚えのあるリズムが耳に入ってきた。“お経”である(そのお経がどんなものかをここで書けば恐らく、どこの宗教かを容易に特定できてしまうと思うので書かないが、多くの方が何らかのかたちで耳にしたことのあるであろうもの、とだけ書いておく)。一定のリズムで繰り返し説いていて、段々とトランス状態に入っている様にも聞こえ、狂気すら感じるものだった。

それからというもの、一日置きにそれを僕は耳にすることになり、仕事から帰ってきたあとにこれが耳に入ってくると、大きな疲労感を覚え、耳を塞ぎたくなってくる。ある時には休日の朝、目覚まし代わりとして耳にしたこともあった。とても目覚めの悪い、憂うつな朝だったのは言うまでもないだろう。

 

イタリアに来て、これほどまでに僕が何らかの宗教に縁があるのはどういうことなのか?ということを時々考える。もしかしたらこれは、かつての恩師に僕が一方的に縁を切った罰なのかもしれないし、その怨念なのではないか?とも思う。だとするなら、宗教の持つ力は絶大、ということなのだろう。

 

もしこれ以上の災難が今後、僕の身に降りかかってきた時はこっそりと、かつての恩師の着信拒否設定を解いてみようか、と思っている。