握手男

幸いなことだが、旅行で訪れた時も含めて、僕はイタリアでひったくりやスリなどの被害に遭ったことがない。自分で言うのも何だが、その類に対する警戒心は比較的、強い方だと思っている。出掛ける時のお金や貴重品の管理はかなり用心している自負はあり、当然、今後そういう目に遭うかもしれないので偉そうなことを言うつもりはないが、力ずくで奪われない限りは大丈夫なようにはしているつもりだ。

 

しかし、そんな僕も去年の冬、イタリアで生活を始めてから最も恐ろしい体験をした。

 

僕は職場のあるフィレンツェ郊外の街まで、トラム(路面電車)とバスを乗り継いで通っている。トラムの停留所までの自転車移動を含めると、片道でだいたい1時間程度掛かる。

ある朝、僕はいつも通りトラムを降りて、停留所でバスの到着を待っていた。本来乗車している時間のバスに乗ることができずに、次のバスが来るのを待つことになった。イタリアは日本のように鉄道も含めた交通機関がダイヤ通りに機能していることの方が珍しいくらいで、遅延はしょっちゅう起こるし、バスは道路が混雑していなければ予定時刻より早く出発してしまうことすらある。この日もそんな予定通りにいかない、ある意味では“通常通り”の朝だった。

 

僕はイヤフォンをして音楽を聴きながら、ややうつむき気味にバスの到着を待っていた。すると、ひとりの男性が僕に声を掛けてきた。冬場で着込んでいる為か、かなり恰幅の良い体型に見える、大柄の男性だ。イヤフォンをしていたこともあり、男性が何と声を掛けてきたのか理解はできなかった。彼はそして、僕に握手のために右手を差し出してきた。

 

普段なら僕は、掛けられた声に返答することはあっても、どこの誰だか知らない相手の握手に反応はしないのだが、この日は自分でもなぜかわからないが、半ば条件反射のように右手を出してしまったのだ。

すると男性は僕の手を握り、微笑みながらいっこうにその手を離そうとしないのである。僕は何とか穏便に手を離そうと試みたのだが、握力の強さとは別の、まるで彼の掌には吸盤でも付いているかのような感覚で離れることができなかったのである。

 

僕は怖かった。彼は一体、何者なのか。どこかで一度会ったことがあるのか。何故僕の手を離さないのか。そんなことを考えている僕に彼は、僕の手を握ったまま色々な質問を僕にしてきた。

「どこに住んでいるの?」

「仕事は何をしているの?」

そんな問いかけを僕は極力はぐらかし、何とか彼から離れたい気持ちでいっぱいだった。一瞬、強引にでも手を払うべきかとも考えたが、できなかった。

この出来事の少し前に僕は映画“ジョーカー”を観ていた。去年、話題になった作品なのでご覧になった方も少なくないと思うが、ざっくりと言えばコメディアンを夢見る心優しい青年が、次第に精神を病んでいき、悪に心を染めていく...といった内容の映画だ。

その主人公に、彼をダブらせた。

『俺が怒ってでも強引に手を払ったら、この人はどんな反応をするんだ...』

顔つきなどから悪意のようなものは感じられなかったので、それが余計に怖さを増幅させた。

 

しばらくして、何らかの拍子で彼は僕の手をようやく離してくれた。正直、その前にどんなやりとりがあったのかをほとんど憶えていない。彼が手を握っている間に恐怖と、色々な問いかけが自分の中で駆け巡っていたからだ。多分、時間にして数分のやりとりだったのだと思うが、僕には数十分も握られていた様に思えた。

手を離してから、彼はこれまでの僕とのやり取りなど何もなかったかのように僕から遠ざかり、バスの到着を待った。彼から離れた僕の手は、多分彼の使っている石鹸の香りがついていた。微妙に良い香りだった。

 

バスが到着し、彼はドライバーのすぐ後ろの座席に着席した。僕は彼から距離を取りたかったので可能な限り後方に身をおき、彼を観察した。僕が降車する際にもまだ席についていたので、更に先の停留所で降りることがわかった。

その日は一日中、彼と朝の出来事が脳裏に焼き付き、離れることはなかった。その日は金曜日で、僕は土・日曜日が休みなのだが、週明けの朝にまた、彼に会い、声を掛けられるかもしれないと思うと、とても憂鬱な気持ちになった。

 

 

週が明け月曜の朝、バスを待っている時にトラムから降りる彼が目に入ったのだが、彼は電動のスケートボードを持参していてヘルメットをかぶり、バスではなくそれに乗って行った。そして火曜の朝もそうだった。僕は正直、ほっとしていた。

 

火曜の夜、僕は帰宅する為、会社から最寄りのバス停に行くとバスが到着するまでにまだ10分近く待たなければならないことを知り、帰り方向側のもう一つ先のバス停に向かえば、別のルートのバスもそこに止まり、そのバスなら別のトラムの停留所の近くまで行くことができるので、そこに向かうことにした。

そのバス停までは400メートルほどの距離があり、前述の通り、道路が混雑していなければ普段利用しているバスが早めに通過してしまうこともあり得るので、いつものバスと別ルートのバスを両天秤にかけていた僕は小走りで向かうと、そのバス停にひとりの男性がすでに待機しているのが見えた。大柄の男性、そう、件の男性である。

『何でこの人、ここにいるんだ...いるはずのない場所に、いるはずのないこの人が...』

朝、電動のスケボーに乗っていたことと、バスを使うにしてもこのバス停ではないはず。にも関わらず、彼はいたのだ。そのバス停は近くにスーパーやバールなどの商店がなく、人気も少ない。そこに彼と2人きりでバスを待たなければならないことを考えるととても怖くなり、僕はそのひとつ先のバス停を通り越し、走る速度を上げて、さらにもう一つ先のバス停まで向かうことにしたのだった。

 

最後にこれほどまでに全力で走ったのはいつ以来だろうかと思うほど息を切らしながら走り、バス停に到着した時には冬場にも関わらず大量の汗をかいていた。その数分後、バスが到着した。普段利用しているルートを走るバスだった。

僕が乗車をすると、件の彼も乗車していた。またドライバーの真後ろの席に。彼は乗車した僕に気がついた様子だったが、僕は知らないふりをした。

 

その後僕はなるべく、朝は彼に気付かれないような場所でバスを待つようにし、彼もしばらくは僕に気がつくと近寄ろうとするそぶりを見せたことがあったが、彼からロックオンされた気配を感じた僕は何かを思い出したかのようなふりをして、近くのバールに逃げるなどの処置をとり、やがて彼も声を掛けてくることはなくなった。バス停で待つ他の人々の中にも、彼が近づくと視線を逸らしたり、遠ざかる人がいることに、僕は後から気が付いた。

 

ある朝、トラムの車内で、別の車両に彼も乗車しているのが見えた。彼は隣の乗客と会話をしていた。そして最後に握手をした。やはりその時も彼はしばらく、その手を離すことはしなかったのだった。