語学学生たち

僕はイタリアで生活を始めてから、現地の語学学校に通い始めた。

大げさかも知れないが、人生は何が起こるかわからないものだ。ほんの数年前まで何年も会社員として働いていた僕が、30台も後半に突入した頃に語学学校とはいえ再び学生になるとは考えもしなかった。そして、イタリアで生活をすることになることも。

 

日本で生活していた時からイタリア語は少しずつ勉強していたが、ずっと独学で勉強をしていたので英会話教室のような学校には通ったことはなく、語学学校がどんなところか全く知らなかった。色々な話を聞くと宿題もあるとのことで、いい歳した中年男が宿題を忘れて、他の学生に小馬鹿にされたら嫌だな、何てことを考えたりもした。

 

語学学校に通い始めると、生徒たちは国籍も世代も、学校に通う期間や目的も様々だということを知った。僕が通い始めた頃は、日本人の生徒も結構多く、彼らは授業の後に食事に行ったり休みの日には旅行に行ったりしていた。僕もたまに食事に付き合うことはあったが、正直に言えば僕は彼らと行動を共にすることにあまり積極的ではなかった。皆、親切で良い人達だったので学校で顔を合わせれば日本語で談笑もするし、偶然街で会えばそこから会話や行動を共にすることもあったが、せっかくイタリアまで来ておきながら、気持ちが通う同士ならともかく、日本人とばかり関わることに僕には少し抵抗があったのだ。

 

通い始めてから数ヶ月後には僕が入学した頃にいた生徒のほとんどが去っていき、新しい生徒たちが入学してきた。彼らのほとんどは学生で、夏休みを利用してイタリアにやって来たのだ。

国籍はバラバラで年齢も僕より一回り以上、下の世代が多かったが、良い意味で上下関係がなく対等に接することのできる良い奴らだった。

 

彼らはとてもアクティブで、授業が終わると食事や美術館に行ったり、夏場だったので海やプールにもよく行ってたようだ。そして、週末にはディスコやクラブに通っていた。欧米の人達は踊りに行くのが好きだし、彼らの若さを考えればそれも当然なのだろう。僕と同じ時期に入学したドミニカ共和国の女の子が踊るのがとても好きなことも知っていたので、それまでやや浮いていた彼女が仲間を得られたことも、他人事ながら良かったな、とも思えた。ちなみに彼女はとても強烈なキャラクターの持ち主で、語学学校の中で最も長い付き合いとなるのだが、それについては改めて機会を設けたいと思う。

 

ある週末の夜、生徒のひとりのオランダ人の男の子からディスコの誘いを受けた。その日の昼間に他の生徒たちを誘っているのは知っていたがその場では誘われなかったので、この誘いは僕にとって意外なものだった。

僕は日本でもその類の夜の遊び場に行った経験がほとんど無いし、そもそも踊ったことなんてない。しかし、彼が分け隔てすることなく僕を誘ってくれたことに対しては悪い気はしなかったので、これもひとつの経験かな、とも思い、誘いに応じることにした。

 

 日付が変わった0時過ぎに僕がディスコに到着すると彼らはすでに踊りを楽しんでいた。そして、おそらく僕がこないと踏んでいたのか、少々驚きながらも僕のことを歓迎してくれた。

僕を誘ってくれたオランダ人の男の子以外はドミニカの女の子とスロバキアの女の子、そして2人のドイツの女の子といった顔ぶれだった。

彼らはディスコでの楽しみ方や踊り方を、場慣れしていない僕に親切に教えてくれた。踊りにこそ終始慣れることはなかったが、彼らの親切のおかげもあり僕の緊張もややほぐれてきた頃、ディスコの中も段々と人が多くなり、学生達もテンションが上がっていった。

 

“ハメを外す”とはまさにこの事、といった感じで彼らはハジけた。オランダ人の男の子は新しい出会いを求めてディスコ内で様々な人に声を掛けていき、ドイツ人の女の子のひとりとスロバキアの女の子にいたっては人目もはばからずディープキスを重ねていた。他のダンス客も凝視する程刺激的なもので、僕は頭の中で全力で彼女達にモザイクをかけた。

 

僕はといえば、もう1人のドイツ人の女の子とドミニカの女の子と過ごしていた。ドミニカの女の子は学校内でも授業そっちのけでスマートフォンをいじり続けている様な子で、この日もスマホで動画を撮りながら踊っていた。

彼女は僕よりは遥かに若いが彼らのグループの中ではやや歳上で、見た目の割に(失敬)気の回る子でもあったので、僕に対してもだが、それ以上にドイツ人の女の子の方にも気を使っていたのだと思う。と言うのも、聞くと彼女は前回ディスコに来た際にかなりの回数、男性から誘いを受けたとのことで、その都度ドミニカの女の子が間に入り、断りをいれたらしいのだ。長身でモデルの様なスタイルの持ち主だったので、男性側の気持ちも当然、理解はできた。

 

そしてこの日もまた、ひとりの男性が彼女に近づいてきて、踊りながらチャンスを伺い始めた。彼は徐々に彼女との距離を詰めて、彼女の身体に接触しようとした時、ドミニカの女の子が間に入ろうとした。しかし男性は、ドミニカの女の子には目もくれずに、なおもドイツの女の子にアプローチを仕掛け続けた。

僕はそのドイツの女の子の方にその気があったり、まんざらでもない素振りならただ見守るつもりでいたのだが、明らかに嫌そうにしていたし、側から見て男の方も粋じゃないなと思い、そしてドミニカの女の子だけでは彼を遠ざけるのが難しそうだったので、僕も間に入ることにした。

すると彼は逆上し、僕に

「なんだよテメーは!?すっこんでろよ!!」

といった感じで突っかかってきたのだ。僕は

「彼女嫌がってんじゃん?やめなって」

と言ってなるべく穏便に済ませようとした。しかし、間に入った時に少し彼の身体に接触したのか、

「俺に触るんじゃねぇよ!次、触れたら殴るぞ!!」

と、更にいちゃもんをつけ、僕を怒鳴り散らした。

 

殴られたら嫌だな、とは勿論感じたが、僕は彼に対して一切、恐怖は感じなかった。あったのは狙った女の子の前で器の小ささをさらけ出す彼に対しての哀れみと、面倒なことに首を突っ込んでしまったな、というほんの少しの後悔だった。

「はいはい。君が男前なのはちゃんと理解できたよ」

言われっぱなしはシャクなので、僕は皮肉っぽくそう返し、彼は更に怒り続けた。

結局、埒が開かないと見たのだろう。ドイツの女の子が連絡先を彼に渡して、その場を収めた。そして、ドイツの女の子から礼を言われ

「なんてことないよ」

と僕は返した。

ドラマだったらここで主題歌が流れて、一気にストーリーが展開するのであろうが、全くなにも起こることはなかった。

 

こうしたやり取りがあった後、3時頃には疲れてほとんど踊ることができない状態だったが、結局、僕はディスコの閉まる早朝5時過ぎまで彼らと行動を共にした。疲労困憊で、まるで“あしたのジョー”の最終話のラストシーンの矢吹丈のようなガス欠の僕をよそに、彼らはけろっとした表情で、少し休んで海に行くと言っていた。

彼らと別れ、帰宅した僕はすぐに就寝し、夕方近くまで目を覚ますことができず、数日間、その疲れが抜けることもなかった。

 

週が明けた月曜日、語学学校では僕がディスコに行ったことがちょっとした話題になり、ドミニカの女の子が撮影した動画を見たい、という話になった。僕としては別にみんなに見てもらって、笑いものにしてもらっても構わなかったのだが、何故か彼女は誰にも動画を見せることはしなかった。多分、彼女なりの僕へのフォローだったのだと思う。そのくらい僕の踊っている様はぎこちなく、ひどいものだったのだろう。

 

数日後、再びオランダの男の子からディスコに誘われたのだが、早朝まで彼らに付き合える体力の自信がなく、丁重に断った。

その週末、そのオランダの男の子が他の生徒たちよりひと足早く、オランダに帰国することを知った。僕はほんの少し、数日前にディスコの誘いを断ったことを後悔した。

その日の晩、また彼から遊びの誘いを受けた。翌日、朝早くからの用事があったので少し迷ったが、短い時間なら、とあらかじめ伝えて、誘いに応じた。彼と会えるのもこれが最後か、と思うと少し寂しさもあったが、最後に短時間でも遊ぶことができて、良かったと思っている。

 

夏が終わる頃、ドミニカの女の子を除いた生徒は皆、各々の母国へ帰って行った。彼らの最終日、僕は彼らとそれぞれ、握手をしてお別れした。

 

僕はきっともう、ディスコに行くことはないだろうし、人前で踊ることもきっとしないだろう。しかし、彼らのおかげで精神的には少し若返ることができたかな、と今でも時々考えるのだ。